昨年末からnoteで連載をはじめ、共同通信社の運営するCityCostJapanにも転載していただいています、『静岡茶屋でお待ちしています』。

ちょっと人生が上手くいっていない、悩みを抱えた女性が主人公で、毎回茶業会議所の担当の女性とテーマを話し合って決めています
いきなり自分語りで恐縮ですが、司法試験を諦めた20代後半、エステサロンの店頭に立っていました。札幌、千葉、名古屋、それぞれの街のエステサロンでさまざまな悩みを持つ女性と出会いました。当時の自分よりもずっと大人にみえた30代40代の女性は、さまざまな悩みをもっていた――。しかし、20代の小娘にこたえられるような悩みではないものも多かったように記憶しています。彼女たちと同世代になった今、10年越しであの悩みにこたえてみたい――。そんな野心も持っています。

何度かこのブログの中でも書いてきましたが、よく質問されることなので、「なぜ法曹界を目指していたのに、美容業界を選んだのか」について言及します。オンブズマン事務局でインターンをしていた司法浪人中に、弁護士でも活動家でもないけど、『お金』という形で活動を支える人に出会いました。『お金』を稼ぐことで社会に貢献するという方法があることを知りました。それにくわえ、人は”美しく”なることで(一時的にも)自信を取り戻すことができるのではないか、美容によって、新しい人生の扉を自分で開く力を得ることができるのではないか。そんな可能性を感じたからでした。

外面だけを追求すればルッキズムと批判されます。しかし、美容は外面的な美しさだけを追求するものではありません。20代であれば誰しも瑞々しい美しさがあるでしょう。しかし、歳を重ね萎れてくると、内面がそのまま外面に表れてきます。その内面をその人らしく上手く引き出す技術が美容なのだと思います。自分を大切にするという意味でも、自分らしく生きるという意味でも、美容によって救われる人、救われて欲しい人は多いと感じています。

お茶もまた、わたしが救われてきたものであり、誰かの気持ちを救う可能性があるものだと考えています。それをどうしたらお伝えできるだろう。書きながら、模索しています。

話は変わりますが、もうひとつ、お茶の記事を書きました。

ここ最近、ブッダの『真理のことば』を読み返しています。『第16章 愛するもの』には次のように書かれています。

愛する人と会うな。愛しない人とも会うな。愛する人に会わないのは苦しい。また愛しない人に会うのも苦しい。
それゆえに愛する人をつくるな。愛する人を失うのはわざわいである。愛する人も憎む人もいない人々には、わずらいのきずなが存在しない。
愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?

ブッダは、このように執着を厳しく戒めています。愛がなければ成しえない。けれども、執着すれば災いとなる。愛する対象も自分自身も、変わっていくものです。愛しすぎるとそのことすら気がつくことができない。執着してはいけない。大変難しいのですが、真理であるとわたしは思います。

ひきつづき、お茶と、法律のいくつかのテーマについて、多くの方と真摯に対話していきたいと思います。