平野啓一郎さんの死刑制度を考える講演会に参加しました。

”人間にはどれくらい自由意志があるのか”。成人するまでの生育環境が不幸でも立派に育つ人もたくさんいる。しかし、そこに至るまで支援者が現れたりするなどラッキーがあったはずだ。罪に見合う罰など本当に考えられるのか? その人自身救われねばならない人だったのではないか。どうして罪を犯してしまったのかを国としては考えなくてはならないのではないか。

このような疑義を平野さんは小説『ある男』の主人公に語らせています。

国 家 は 、 こ の 一 人 の 国 民 の 人 生 の 不 幸 に 対 し て 、 不 作 為 だ っ た 。 に も 拘 ら ず 、 国 家 が 、 そ の 法 秩 序 か ら の 逸 脱 を 理 由 に 、 彼 を 死 刑 に よ っ て 排 除 し 、 宛 ら に 、 現 実 が あ る べ き 姿 を し て い る か の よ う に 取 り 澄 ま す 態 度 を 、 城 戸 は 間 違 っ て い る と 思 っ て い た 。 立 法 と 行 政 の 失 敗 を 、 司 法 が 、 逸 脱 者 の 存 在 自 体 を な か っ た こ と に す る こ と で 帳 消 し に す る 、 と い う の は 、 欺 瞞 以 外 の 何 も の で も な か っ た 。 も し そ れ が 罷 り 通 る な ら 、 国 家 が 堕 落 す れ ば す る ほ ど 、 荒 廃 し た 国 民 は 、 ま す ま す 死 刑 に よ っ て 排 除 さ れ ね ば な ら な い と い う 悪 循 環 に 陥 っ て し ま う 。

平野啓一郎. ある男 (Kindle の位置No.3107-3113). 株式会社コルク. Kindle 版.

お話の中でハンナ・アーレントの『人間の条件』の”許し”について言及がありました。許しの代替物としての『罰』について。

許しは復讐の対極に立つ。(中略)許しを説くイエスの教えに含まれている自由というのは、復讐からの自由である。なぜなら復讐を続けた場合、行為者と受難者はともに、活動過程の無慈悲な自動的運動の中に巻き込まれ、この活動過程は許しがなければ決して終わることはないからである。(中略)許しの反対物どころか、むしろ許しの代替物となっているのが罰である。許しと罰は、干渉がなければ際限なく続くなにかを終わらせようとする点で共通しているからである。

ハンナアーレント『人間の条件』第5章活動

このアーレントの許しについては講演会で質問が出ていた部分で、アーレントの他の書物も読んでからまた考えたいと思います。また、許しの代替物としての死刑が妥当かどうかについてはもっと議論に参加していきたいと思います。

平野さんの死刑制度についてのお考えは小説『ある男』で主人公の弁護士・城戸が思考を深めていく部分と重なる部分もあり、わたしたちに多くの疑問を投げかけています。ご興味のある方はぜひそちらをお読みいただけたらと思います。

『ある男』は一人の男性の死から物語が紡ぎだされます。

(この先はネタバレになるので、これから読む予定の方はこの先を読まないでください)

遺された妻は3年9カ月夫婦として過ごした夫が全く別人の人生を生きていたことを知ることになります。物語は夫を失った妻「里枝」のつぎのような言葉で終わります。

その思い出と、そこから続くものだけで、残りの人生はもう十分なのではないか、と感じるほどに、自分にとっても、あの三年九カ月は幸福だったのだと、里枝は思った。

読んで驚きました。すこし前にここに書いた自分の心境にとても似ていたからです。作中、大切な人を失うということは、言葉を紡ぐ相手を失うということだ、というような里枝の言葉にも共感したのですが、どこだったか見つかりません。年を重ねるということは、大切な人を失うことでもあります。話すべき相手を失った言葉を紡いでいくことでわたしはこの先も生きていけるのではないか。糸のように細く頼りない希望ではありますがそんなふうに感じました。