最近聞いた歌でしみたのは森山直太朗の「愛し君へ」で、最近読んだ小説で印象に残ったのは江國香織さんの「溝」だ。

「溝」は離婚することを決めた夫婦がそのことを伏して夫の実家を訪問するという短時間の出来事を夫の視点で書いた短編小説だ。修羅場や壮絶な夫婦喧嘩などは出てこない。
ただ読者は妻の言葉で表現される夫婦間の「溝」を知る。こんなふうに。

「うちのトースター壊れているのよ、知ってた? 私はきのう歯を抜いたの。歯の抜けた口でキスをしたわ。浮気じゃなくてもキスくらいするのよ。冷蔵庫をずっと掃除していないから、奥にはたぶん去年の野菜とか、ハムとかチーズとかが入っているわ。知ってた? 私たち、一緒に暮らしてはいても、全然別の物語を生きてるのよ、知ってた、そのこと」
志保の「知ってた?」は果てしなく続いた。

この「溝」は直木賞を受賞した「号泣する準備はできていた」に収録されている。「マチネの終わりに」がオシャレなカクテルドレスのような小説なら、「号泣する準備ができていた」はジーパンにTシャツのような小説だ。なんでもない、日常が切り取られる。でも江國さんの手にかかると人生の象徴的な出来事として輝きだす。もともと文庫を持っていたが、芥川賞作家の玄月さんの講義で取り上げられじっくりと読んだ。

ところで先月、わたしたち夫婦は11回目の結婚記念日を迎えた。

よくもったね

夫は毎年、同じ日に、同じ感想をいう。今年はすこし違った。

よくもったね。もうだめかと思ったこともあったけど

軽口をたたくタイプでもないのでぎょっとした。え、と聞き返したが、もう話してくれなかった。でも、あのあたりのことをいっているのだろうなというのはわかった。別々の人間が同じ物語を編むって簡単じゃない。一緒に過ごす時間の長さとか結婚して何周年とかは、信頼できるようでいて本当のことは何も保証してくれない。

恋愛を超えてもずっと一緒に暮らす夫婦というのは、意識しないと毎日の生活の中で少しずつ溝ができる。たとえば、相手の食事の仕方に違和感があっても面倒くさいし場の雰囲気が悪くなるのでいちいち指摘しないとか、会社の女の子とSNSで繋がったことを報告しない(普通はしない)とか、最初はほんのささいな出来事が小さな溝を作ったとする。しかし、そのままにすれば、食事のたびに違和感は募り続けるし、SNSで繋がった会社の女の子と仲良くなって食事に行ったことも秘密になっていったりなど、溝は徐々にひろがってくる。やがて、2人の間にできた小さな溝に水が流れだし、流れに勢いが出たら侵食も進むし、もう埋められないほど深い溝になることもある。どこかの時点で溝を埋めるか、あるいは埋めるのをあきらめるか。横たわる深い溝があってもなお、離婚しない夫婦も多い。

「溝」は妻の次のような言葉で結ばれる。

「私たち一度は愛しあったのに、不思議ねぇ。もう全然なんにも感じない」
志保は言った。
「ねえ、どう思う?そのこと」

妻の「ねぇどう思う?」「知ってた?」は作品中、何度も繰り返される。しかし、問うてはいても、もともと夫の返答を前提としておらず、彼女のもとで完結してしまう言葉。彼女が溝の向こうの夫に本当に問うていたら、物語の結末は変わっていたのか。あるいは、ある時点までは、彼女だって問うことで一縷の望みをかけてきたのではなかったか。

全然円熟していないので総括は出来ないけれど、夫婦は法律に縛られているだけの関係だ、というつもりもないし、はたまた『絆』なんていう安っぽい言葉で張りぼての夫婦像を作るつもりもない。家族とは、夫婦とは、結婚とは、ほんまなんでしょうね。ずっと考えているし、これからも考え続けると思う。