わたしの父方の祖父は幼い頃両親を亡くし、京都の呉服屋へ丁稚奉公に出され、日中戦争で片手を失った。戦地から戻ると家督相続するはずの家は別の兄弟が継いでいた。
そんな厳しい半生を送った祖父は、厳しい人だった。また、とても難しい人だった。長男として生まれた父をこころから愛していたけれど、愛する者の愛し方を知らない人だった。父は祖父に反発した。長い間、父と祖父の折り合いが悪かった。政治的立場の違いが二人の間の溝を深くした(と私は観察していた)。
わたしは祖父も父も大好きだったから、しんどい思い出だ。

政治は親子でさえ分断するもの、という記憶が刻み付けられた。

話が変わるが、20代前半、ケネディ一家の家系図をかけるくらいケネディが好きだった。しかし、ケネディ大統領が暗殺された後にロバートケネディ(ボビー)が兄の後を追うように出馬し、また同じく暗殺されたことがどうしても解せなかった。暗殺される危険があって、なぜ出馬したのだろうか。ボビーが暗殺されてしまったことがとても残念だと感じていた。私は親しい友人に「ボビーは怖くなかったのかな」ととても素朴な質問をした記憶がある。当時の私は暴力で政治的な発言を阻む卑劣極まりない世界は、自分の住む世界とは別の世界の話だと勘違いもしていたと思う。

その後、オンブズマン連絡会議でインターンとして活動もした。しかし、エステの経営者としてお客様や取引先ができると、政治的な意見を表明しなくなった。政治は「分断」するものだと知っていたからだ。また、日本で政治の話をしないことはビジネスマナーでもある。そして、自分の政治的な意見もあいまいになっていった。WEB制作会社から政治家のWEBサイトの運営を任されたりしたことや、生まれも育ちも違う夫との生活がはじまったりしたことはそれに拍車をかけた。

取り戻したのは昨年の一連の災害だ。災害のあと、わたしは言葉を失った。どうかき集めようとしても、表現できず、バラバラになってしまう、ということを経験した。しかし、このことばをうしなうという経験は私だけに起こったことではないことを知った。

高橋源一郎さんは『非常時のことば』(2016 朝日文庫 )のなかで次のように説明している。

「非常時」(中略)誰かに、言葉を借りようとしても、貸してくれる人がいないことに、あなたは驚く。その時、初めて、ぼくたちは、自分のことばを使わなければいけなくなる。そして、そんなことばを、実は、持っていなかったことに気づくのである。

「非常時」に遭遇すると人は言葉を失う。失う、というより、いつも誰かの言葉を借りていて、もともと自分の言葉を持っていなかった。震災のあと、自分の中のものを見つめなおし自分を救うためには、自分自身の言葉がどうしても必要になった。

また、災害に際して、政治は本質的に分断するものだと知っていてもなお、自分の思いを自分の言葉で表明しなくてはならなくなった。それは子どもたちの暮らす未来が健やかであってほしいという願いからである。

今、チャリツモで仲間と憲法の記事を書いている。今回取材に応じてくださった弁護士の永井先生は阪神淡路大震災で事務所が倒壊する被害に遭われた。それからずっと被災者の側に立ち、災害支援をしてこられた。記事には書ききれなかった先生との質疑応答をもう少しここに追記したいと思います。