1.能とはなにか

坂口安吾は1942年に「日本文化私観」の中で、

「僕は『檜垣(ひがき)』を世界一流の文学だと思っているが、能の舞台を見たいとは思わない。もう我々には直接連絡しないような表現や唄い方を、退屈しながら、せめて一粒の砂金を待って辛抱するのが堪えられぬからだ。舞台は僕が想像し、僕がつくれば、それでいい。天才世阿弥は永遠に新らただけれども、能の舞台や唄い方や表現形式が永遠に新らたかどうかは疑しい。古いもの、退屈なものは、亡びるか、生れ変るのが当然だ」

と書いています。

しかし、安吾が書いてから70年以上たっても、能は滅びてはいませんし生まれ変わってもいません。安吾の時代とさほど変わらず、「古い」「退屈だ」といわれながらも変わることなく続いています。650年以上連綿と続く能とは一体何なのか。能舞台を何度か鑑賞しても分かりませんでした。「習ってみなければ分からない」というアドバイスに従って、能楽師について扇を振ったり、謡曲を謡うこと数か月。すると、物語の流れや配役はおぼろげながら分かるようになりました。しかし、「能とはなにか」という大きな視点での問いの答えはなかなか見つかりません。おそらく10回、20回と能の舞台に足を運び、10年20年と能を習い続けてようやくわかるものなのでしょうが、できるだけはやくその一端でも掴みたく、エクスチェンジプログラムに参加しました。

2.能舞台に死後の自分を見る

(1)あの世とこの世のあわい=能舞台

プログラムの中で京都観世会館および大江能楽堂という二つの能舞台にお邪魔しました。よく知られているように、橋掛かりはあの世からこの世への渡された架け橋とされています。つまり、シテはあの世の人。シテはあの世から橋懸かりを渡ってやってきます。鏡の間から足の裏を舞台の上を滑らせる独特のすり足で一歩ずつ、ワキの待つ舞台へやってきます。能舞台とはつまり、あの世とこの世のあわい。哲学者の古東哲明氏は「他界の出店であり、あるいは逆にこの世の前線基地(フロント)」と表現していらっしゃいます。

(2)あの世へ誘う物語=夢幻能

今回のエクスチェンジプログラムで鑑賞した演目は、どれも詩的旅を続ける旅人(ワキ)があの世の住人(死者・精霊・神霊・物狂い)である主人公(シテ)と出会い、土地にまつわる物語や自らの身の上を語るという筋書きです。毎回毎回お能の舞台を観るたびに、「また幽霊か!」「また旅人か!」と心の中でツッコミをいれながら観ていたのですが、いやいや、そうではないのでした。

何らかの障壁がある美女が王子様に出会い、障壁を乗り越えて幸せを掴むというのがディズニーのプリンセスストーリーの王道である(最近は変化があるかもしれません)のと同じように、能とはまさに、詩的な旅を続ける旅人が幽霊に出会うのがストーリーの王道なのでした。これは複式夢幻能と呼ばれています。すべてはその複式夢幻能を前提とした舞台装置・物語・配役となっています。
シテである幽霊が決まって語るのが苦しみや悲しみの物語。一体どうして何のために世阿弥はそんな物語を選び、舞台を組み立てたのでしょうか。

(3)清経を例に

ここで、7月22日に京都観世会館で行われた林定期能の『清経』を思い起こしてみます。
『清経』は、平清経の従者・粟津三郎(ワキ)が入水して果てた主君の遺髪を妻の元に届けるところから物語が始まります。粟津がわざわざ届けに来たにもかかわらず、清経の妻は「悲しみが増すから」と夫の遺髪を受け取ることを拒みます。そんな妻の枕元に夫・清経の亡霊(シテ)が現れます。妻は夫に自ら命を絶った夫の身勝手を責め、逆に夫は遺髪を受け取らなかった妻の薄情を責めます。そんな噛み合わない夫婦喧嘩のやり取りを観ながら、ある一つの考えが頭に浮かびました。

能は戦国武将の前で舞われたといいます。頭の中に浮かんだのは、明日は命を落とすかもしれないという戦の前夜に松明のもと『清経』が舞われたならば、武将はどんな気持ちでこの『清経』を観ただろうか、という考えでした。

清経の妻は

「われは捨てにし命の恨み」
(わたくしにとって恨めしいのは中条殿が自ら命をお捨てになったことです)

こんな風に赤裸々に夫を責めます。

『清盛』の観客である武将は、清盛の妻の恨みの言葉を、自分の妻の言葉として聞いたのではないでしょうか。戦で死んだ自分が今まさに妻の枕元に立っている。その姿を離れた所(観客席)から観ている、という不思議な感覚。幽体離脱といってよいのでしょうか。死後の自分に出会うという劇がまさに夢幻能。死を扱ったほかのどの演劇でも得がたい経験だと思います。

あの世の人であるシテが舞台を去り、観客は現世に戻ります。そのとき観客は、世阿弥から「戦で醜態を晒しても死なないで生き延びよ」というメッセージを確かに受け取っています。

そんなことを考えて、もう一度意識を京都観世会館の観客席に戻します。

鬼の面(おもて)を付けたシテと目が合うような瞬間、否が応でも肌が粟立ちます。鼓動が速くなります。魅入るうちに、だんだん自分がこの世からあの世のあわいに連れ込まれていきます。能楽師の安田登さんが「ちびクロさんぼのお話で、木の周りを回りながらトラがバターになっていく感じ」と表現されていましたが、ヨウホウの囃子、哀愁を帯びた笛の音、テンポを速める太鼓の音、腹まで響く能楽師の謡(うたい)、床を踏む音。やがて自分は観客席でもないところからこの音を聞いているような瞬間が訪れます。よく非日常、幽玄、という言葉では表現されますが、本当にヤバイところへ連れていかれます。このヤバイ感じは能楽堂に足を運ぶ回数に比例して強くなっていきました。

4.能の現代的意味

2018年は地震大雨と天災が続き、私たちは「生」と「死」のあわいに生きていることに気が付かされる年でもありました。私たちはやり直しのできない一瞬一瞬を選択しながら生きています。諦めた夢、別れた恋人、出てきた故郷、離れて暮らす両親。捨ててきたもの、選ばなかった道をときどき思い出し、痛みを感じながら生きています。

シテが舞っている間、夢のような時間の中で、死後の世界から自分の来し方行く末を見つめなおす。シテが舞台から去り戻った現世は少しだけ愛せる気がしてくる。能鑑賞とはそんな作業ではないかと感じました。

5.あらめて観劇の魅力

能をブラウン管を通して観ることがあります。舞や装束の美しさや物語については伝わってきます。しかし、残念ながらその本当に魅力は全く伝わってきません。

目の前の役者から発せられた声によって、650年前の世阿弥から、ダイレクトに「言葉」を受け取りました。言葉遣いが古くて意味は理解できなくても、「言葉」を受け取りました。観劇が終わって現在に至るまで、受け取った「言葉」が自分の内側を強く揺さぶり、その揺さぶりが身体中に広がりつづけます。演劇の力、なんていうありきたりな言葉では表現しきれないもの、それがまさしく観劇の魅力なのだと思います。

(2018年地点エクスチェンジプログラムレポート)
今年は多忙のためすべてのエクスチェンジプログラムに参加できそうにありませんが、日程が合う回にはぜひ参加したいと思っています。