家庭の事情で参加できなかった回もありましたが、数回にわたった水野友晴先生の西田幾多郎「善の研究」講義メモ。講義自体は素人にもとても分かりやすくかみ砕いてお話しくださり、分かったような気になったのですが、自分では答の出ないなぞなぞの答えを教えてもらった時みたいに本当には腑に落ちていない部分がほとんどです。が、とりあえずキーワードだけ。徐々に整理していきます。

「我々がそこから生まれ、そこに於いて働き、そこへ死んで行く歴史的実在の世界といふものはどんなものであるか」
(私に命を与えてくれる根源と私たちはどのようにつながっているのだろうか)

 

事実其儘に知る

事実其の儘に知るとは「舞台裏を観る」ということであると水野先生は説明されていました。
主観と客観/自分と他人という二元論の構図でものを見ることも、文章化も「加工」や「整理」である。
儒教道徳に縛られることによって見えなくなっているものがある。見ようとしないでおこうとして見えなくなるものもある。
私たちは舞台裏に回り込む努力をいつも意識的に行わなければならない。

舞台裏たる無への関心

見えるものの背後に見えないものがある、それを「無」といった。

形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云ふまでもないが…東洋文化の根底には、形なきものの形を見、声なき者の声を聞くと云ったようなものが潜んでいるのではなからうか。我々の心は此の如きものを求めて已まない、私はかかる要求に哲学的根拠を与えて見たいと思ふのである『働くものから見るものへ』「序」昭和2年

誤解されがちなのだが、形なきものの「形」を(形なきものの形として)見、声なき者の「声」を(声なき者の声として)聴く
形の背後には、目に見えない形なきものが控えており、声の背後には耳に聞こえない声なきものが控えている。そしてそれを総括して、「有」の背後には「無」が控えている

世界や歴史は無の上に浮かんでいる
世界や歴史は目に見えるようになった「無」の一部である

人生のレッスンと「無」

個人あって経験あるにあらず、経験あって個人あるのである

個人(=有)の背後に経験(=無)が働いており、経験の働きによって個人は新しく更新される。日常はその背後に膨大な創造のエネルギーを抱えており、何かの拍子の日常の表面を突き破って背後のエネルギーが噴出してくることがある、それによって日々新しく更新されていく。

この具体例として、20世紀後半から21世紀初めにかけて活躍した精神科医で何千人もの終末期の患者をみとってきたエリザベス・キューブラー・ロスの活動があげられる、と水野先生はおっしゃった。彼女は更新と破壊の働きを感得しつつ人生を紡いでいくことを「人生の暴風にも似たレッスン」と呼んだ。

死にゆく人々の感情は否認・怒り・取引・抑うつ・受容という段階を経ていく。
「自分たちの人生を生きなかった」「生きてこなかった」「歌手になりたかった」「ダンサーになりたかった」「お金は得たけれど自分のしたいことができなかった」「愛をお金で買ってしまった」「他人を満足させるために生きてしまった」「自分の全人生を売り渡して生きてしまった」「無償の愛ということは何かを知らない」という否認や怒り、抑うつを経て、遅かれ早かれ誰もがいずれ必ず「死」受け入れる(受け入れざるをえない)。死というのは究極の破壊だ。

エリザベス女史は最終的に自分の人生に満足できるようにコーディネートしていくことを提唱。
彼女の著書「ライフ・レッスン」に掲載されているがんと闘い、死と向き合う9歳の少年のエピソード。

死の床にありながらも周囲に愛をふりまき、人生をみつけたいと真剣に願っている少年がいた。九歳のその子は、もう六年間もがんに苦しめられていた。入院してきた少年を一目見たとき、私はその子がすでに病気や死とたたかう段階をおえていることがわかった。病気を受け入れ、死という現実を受け入れていた。

(中略)かれの夢は自転車に乗って近所を一周することだった。でも、長く病床にいたかれは自転車に乗れなかった。だから、父親に補助輪をつけてくれと頼んだ。(中略)
両親と私は少年が戻ってくるのを待った。永遠のような時間が流れた。少年はようやく、よろめきながらも、自転車にまたがったままで通りに姿をあらわした。その顔は青ざめ、極度に衰弱しているようだった。その子が自転車に乗れるようになるなど、だれがおもっただろうか?その子はわたしたちのほうをみて、目を輝かせていた。少年は父親に、補助輪を外して自転車を自分の部屋に運んでくれと頼んだ。(中略)その日、少年が誕生日の贈り物として弟に自転車をあげると告げたことを知ったのは、それから二週間後、小学校一年生の弟の話を聞いていたときのことだった。少年は自分が弟の誕生日まで生きられないことを知っていた。残りの時間も生きる力も尽きようとしていたその時期に、勇敢な少年は自転車に乗って近所を一周して、その自転車を弟にゆずるという最後の夢をかなえたのだ。

 どんな人の中にも愛の夢、人生の夢、冒険の夢がある。でもその一方で、情けないことに、わたしたちは自分の夢を実現してはならないという、さまざまな理由にしがみついている。その理由は一見もっともらしく、身の安全を保障してくれるもののようにみえるが、じつはそれこそがわたしたちの自由を束縛するものである。そうした理由によって、わたしたちは人生を遠ざけているのだ。人生は思っている以上に短く、あっという間におわってしまう。乗りたい自転車があり、愛したい人がいるのなら、いまそれを実行すべき時である。

老いるに伴って衰えてゆく身体機能、短くなっていく残り時間、境遇…これらすべてが舞台となり、私たち自身の人生を開拓させるものである。

エリザベスのことば。

本当の愛は無条件で無償であるべき

人生の問題が中心であり、終結

哲学的研究がその前半を占め居るにも拘らず、人生の問題が中心であり、終結である
(西田 幾多郎. 善の研究 序)

般若心経から

色即是空(しきそくぜくう) 形があるものは形がないもの
空即是色(くうそくぜしき) 形がないものは形があるもの

無いものから作り出す、クリエイティビティ(創造性)を人生において常に行っている。
未来はまだ決まっておらず、われわれは常に舞台の上で破壊と更新を繰り返す。