「物語」とは何か、については文章を書こうと思った10年前から私なりに浅いながらおぼつかない足取りで考えてたり学んできたつもりですが、物語の本質を突き止めようとするとかならずドストエフスキーとかフローベールのボヴァリー夫人が避けては通れない書物として紹介されます。中でも辻原 登さんはドストエフスキーを読む時期まで厳しく限定しています。

ドストエフスキーは十九歳までに読み終えていなければ、読んだことにはならない、と私は考えている。二十歳を過ぎて読み始めるのではもう遅い。納得できない人もいるだろうが、私はかたくなにそう思っている。ドストエフスキーの毒を十九歳までに浴びていないものは、本質的な作家にはなれない。二十歳を過ぎては、もうドストエフスキーの毒は体中に回らなくなる。

東京大学で世界文学を学ぶ |辻原 登|2010年|p6

私がドストエフスキーの毒をあおったのは二十歳をだいぶ過ぎてからだから、本質的な作家にはなれそうにありません。もっとも50年前ならともかく、現代にこんな人はなかなかいないだろうと思いました。が、最近知り合った大学で哲学を学んでいる20歳の青年がまさに19歳で読んだ、と言ってました。彼は会話の中でごく自然に、哲学者の古東哲明先生の言葉を恋人からもらったラブレターの言葉のように大切に使っていて、最近であったの人の中で一番変わっているけど相当面白そうな人です。きっと彼は本質的な作家になるだろうな。

本質的な作家ではないと自覚しておりますが、あおった毒で大人向けの小説を書き、先日東京で開催された文芸フリマに出品させていただきました。春に続き、ご一緒させていただいた籠鳥艶雲の皆様、大変お世話になりました。山内たま編集長が装丁の素晴らしい本にしてくださいました。
また、M社のOさんの心の広さに甘え、誤字の指摘やアドバイスをいただきました。心より感謝申し上げます。