銀閣寺近くのアンダースローにて、能楽研究者・天野文雄先生のお話を劇団地点の代表で演出家の三浦基さんのナビゲーションで伺う。
(自分のための備忘録のためにアップしています)

能は千回遅れの前衛

とおっしゃる天野先生。
能 は観念的な舞台芸術であり、その点が三浦さんの演出する劇団地点の作品と共通する。

戯曲として 能 は600年も前に書かれたテキストが使い続けられている。もっとも、600年の間に古典化しており、若い頃の美空ひばりが歌っていた歌謡曲を晩年の美空ひばりが歌うのと同じ曲でも歌い方が違うように、室町時代にくらべ現在は約3倍の長さで上演されているそうである。

同じ古典芸能でも、歌舞伎の女形は実際に演じるのが男性でも十分色っぽいのに比べ、能 は女性の役でも声色すら変えない。辛うじて女性の面をつけているが楊貴妃でさえ野太い声なので映画やテレビドラマなどのリアリティある現代の虚構と比較して大変な違和感がある。

また、歌舞伎や文楽など感情に訴えるものとは違い、役者の演技を観て泣けたりしない。特に笑いをとったりもしない。感情に訴えないのが 能 の特徴である。(なんていうか、鳥肌が立つことはしばしばありますが)(天野先生によれば、隅田川は例外)(歌舞伎が大衆のために演じられたのに対し、能が武士の前で演じられたことも念頭に置くべきである)

そして、毎回同じ、屋根付きの松の描かれた特有の舞台装置にほとんど小道具もない。
話を進めるにあたって、と三浦氏から近代劇と現代劇との違いについてのレクチャーがあった。

近代劇 緞帳がありオペラハウスに代表される一般的な劇場で行われ、リアリティが重視される。例えば、劇団四季。
現代劇 一般的な舞台劇場で行われず、神社の境内やカフェ、公園などで行われ、プロットの展開もなく、反リアリズム的な作品が多い。劇団地点もこちら。

これを前提に 能 をとらえてみると、リアルではなく、極めて観念的、象徴的であり、現代劇に通じる前衛性があり、能に存在感を与えていると天野先生は指摘。(ここで「能は周回遅れの前衛」という意味が理解できる)三浦氏は「存在感」を「品格」という言葉で表現し、品格がなければ能は成立せず、だからこそ現代劇では許されないようなヒーローヒロインが能では許されている、と。しかしそれらを許さないつもりで観ないと面白くない、ともおっしゃっていた。(なるほど)

また、現代劇との違いは、現代劇は観客が理解できなければ、製作者に説明が求められる場面が少なからずある。しかし、能は理解できないのは自分の勉強不足だと思わせる歴史的な厚みがあると三浦氏が仰っていたが、多くの方にとってもそうだろう。余計なものが排除されており、観客に対しほとんど説明はなく、観念的であるため、観客に前提知識や文脈からの理解を求める。文脈とは、詩的・観念的な紀貫之や藤原定家の古今和歌集の世界であってリアリズム合理主義から歓迎された万葉集の世界ではないとも。

現在では現代劇にも能の要素は頻繁に取り入れられているが、初めに現代劇に取り入れたのは演出家の鈴木忠志氏(SPAC初代総監督で奥野さんの師匠)だと紹介されていた。
前回の「忘れる日本人」も紅白の紐で四角い結界が作られていて、私個人的には能舞台をイメージした。この点を三浦氏に質問したところ、能舞台を意識したわけではないそうである。今までの作品で能的要素を取り入れたことは一度もないが、これからの戯曲で能的要素が入ってくることはありうるとのこと。

こうして考えると、古い歴史のある静岡茶でも前衛的なものがある。
それが、おそらく東頭とかまちことかなのかなぁと思った。その前衛性に説明がいるのかどうか。(飲んで分かる人にはわかるし、分からない人にはわからない。それがすごい、面白い、と思うか、普通の静岡茶と違う、と思うにとどまるか。これを「嗜好の問題」と仰った葉桐さんの言葉がようやく理解できた気がします)

7月30日追記:会場で三浦さんから出た質問で「ヨウホウ」に意味はあるのか?について、師事する能楽師の先生に伺ったところ、「ヨウホウという言葉自体に意味はないが、謡の間合いを数えたりするためにも意味がある」との回答をいただいた。

cf:新劇