京都の国立近代美術館京都市美術館の一筋違いに京都観世会館があり、お能を観に行った。先月出町柳にカレーを食べに行って以来、今年に入って2度目の京都。
最寄駅から河原町まで280円圏内という近さであり、気持ちの上では足繁く通いたいのに、人混みにもみくちゃにされることを想像すると足が遠のいてしまう。

演目は「アコギな商売」とか「アコギな人」といった言葉の語源となったらしい、「阿漕(あこぎ)」。(他に橋弁慶)

阿漕の舞台は、三重県津市にある「阿漕が浦」。
伊勢神宮に近く、伊勢神宮の供物のみ捕ることを許された禁漁の場所。その場所に阿漕という漁師が夜な夜な忍び込んでは何度も密漁し、やがて露見し、捕えられ、そのまま浦に沈められてしまったという伝説がある。その伝説を元に西行の歌※1も詠まれ、その歌をもとに能の演目が作られている。(同じく漁師が罪を犯すという演目の羽衣とは対照的な暗さ)

罪深いと知りながらも亡霊になっても禁漁の場所で網を曳く阿漕がものすごく恐ろしかった。度重なればいずれ明るみに出てしまうのに、それでもやめられない人間の業の深さが、ただ恐ろしかった。(だから、現代でアコギとは、「しつこい」とか「欲深い」という意味として伝わっている)「助け給う」と言いながら消えていく阿漕の姿の傍らで打たれる鼓の音は木魚に、コーラス隊である地謡は読経にも聞こえた。あまりにも余韻が残り、せっかく訪れた京都で美術館も和雑貨屋も覗く気になれず、帰宅。

坂口安吾は「日本文化私観」の中で、

僕は「檜垣ひがき」を世界一流の文学だと思っているが、能の舞台を見たいとは思わない。もう我々には直接連絡しないような表現や唄い方を、退屈しながら、せめて一粒の砂金を待って辛抱するのが堪えられぬからだ。舞台は僕が想像し、僕がつくれば、それでいい。天才世阿弥は永遠に新らただけれども、能の舞台や唄い方や表現形式が永遠に新らたかどうかは疑しい。古いもの、退屈なものは、亡びるか、生れ変るのが当然だ。

とばっさり。多くの人も安吾と同じような感覚を持っていらっしゃることと思う。お能の題材は歴史や伝承など古くから伝わったものだけど、人間の業を描く能は現代でも人間のテーマそのもので、決して古いものだとは思わない。また、歴史、言葉、装束はもちろん、能舞台だけの持つ静謐で幽玄の世界、世俗を押し殺したような品の良さ、重厚な美は他にないものかと。触れるたびに深さを感じ、さらに知りたくてまた触れる。どんなに触れても、進んでみても分からなさが残る。しばらくそんなことが続きそうである(計らずも地謡の中に師事している先生を発見)

ただ、能はテレビの映像で見ても、解説書を読んでも全然面白くないなぁと感じてしまいます。やはり、身体ごとあの空間に入り込む方が面白い。DRESS部※2で京都能楽鑑賞ツアーを企画しようかな。ご興味あれば、ぜひお能ご一緒しましょう。

※1(源平盛衰記・巻八)

さても西行発心のおこりを尋れば、源は恋故とぞ承る。申も恐ある上臈女房を思懸進たりけるを、あこぎの浦ぞと云仰を蒙て思切、官位は春の夜見はてぬ夢と思成、楽栄は秋の夜の月、西へと准へて、有為世の契を遁つゝ、無為の道にぞ入にける。あこぎは歌の心なり。伊勢の海あこぎが浦に引網も度重なれば人もこそしれと云心は、彼阿漕の浦には神の誓にて、年に一度の外は(あみ)を引ずとかや

※2 なんと思い出したように静岡DRESS部の記事が今月号のWOMOに!

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