原民喜という人を知らなかった。
宮下奈都の小説「羊と鋼の森」(映画化され、公開中)に彼の詩「砂漠の花」(リンク先は青空文庫)が出てくるらしい。小説を読むか映画を観よう、と思うが、どちらもちょっと先になりそうなので、まず民喜の詩集を手にした。

民喜は内気を通り越したような性格で、人とうまく言葉を交わすことができなかった。そんな民喜の妻は民喜の口であり、耳であり、外界との窓であったという。その妻を病で失い(昭和19年)、広島で被曝する(昭和20年)。

妻の死から7年後、詩集とともに「妻と(死に)別れてから後の僕の作品は、その殆どすべてが、それぞれ遺書だったような気がします」と義弟への遺書に書き残し、西荻窪と吉祥寺の間の線路に横たえて亡くなった。
以下、全集に収められた民喜の詩。

記憶

もしも一人の男がこの世から懸絶したところに、うら若い妻をつれて、そこで夢のような暮らしをつづけたとしたら、男の魂の中に還つてくるのは、
おそらく幼い日の記憶ばかりだろう。そして、その男の幼児のような暮らしが、ひっそりすぎ去ったとき、もう彼の妻はこの世にゐなかったとしても、男の魂のなかに栖むのは妻の面影ばかりだろう。彼はまだ頑なに呆然と待ち望んでいる、満目蕭条たる己の晩年に、美しい記憶以上の記憶が甦ってくる奇蹟を。

原民喜全詩集 36p (岩波文庫

妻の死によって生まれた、悲しく美しい記憶。人は書かねばならないときに書く。民喜はどうしても書かねばならなかった。

先日の大阪北部の震災。無常を突き付けられる。どう考えてもやはり、人間の人生は神様によって仕組まれており、人間は生かされているに過ぎないらしい。民喜の人生もまた、仕組まれたのだといったら残酷すぎるでしょうか。自分の人生を振り返ってもやはり、すべては仕組まれたことなのだろうと思う。与えられた仕事、いただいたご縁。仕組まれたものの中で、今できることを精いっぱい、真っ直ぐに生きよう。
(「仕組まれている」という言葉は大阪のお姉ちゃんとお慕いするYさんの「人生仕組まれている」論による)

音読の安藝さんに「私をモデルに書いてください」とお願いしたら、本当に作品を書いてくださった。(物語はフィクションです)

安藝さんの女性の精緻な描写がとても好き。アーティストの松本和史さんの素敵な映像とともに。映りこんでいると知らずに映っているあほな私があほすぎてどうしようもない。

※震災直後に書いたために一部暗い表現があり、修正しました。