5月6日に東京で行われた文学フリマ※1にR18(成人向けの作品で性的描写を含むもの=Pornography)の文庫本の執筆に参加させていただいた。

「ポルノは女性への攻撃行為」という問題意識を持つフェミニズムの立場からは批判を受けるような行為である。その点につき、言及させていただきたい。

私たち女性は、ずっと見られ、撮られ、勝手に評価され、あるいは、お金の対価とされ、玩具のように扱われてきた。すべて男性によってである。昨今のセクハラの報道よりも現実はもっとずっと過酷な世界が広がっており、女性たちは傷つきながらそれでも闘いながら生きている。

初潮を迎え生物学的に女なのだとはっきりと示されたころ、男性からのそのような扱いを受けることは恐怖だった。その恐怖は歳を経るごとに傷ついたり、嫌悪感を感じたりしながら、次第に怒りへと変った。今回のR18は私たちの怒りの表明ともいえなくもない。男性による受け身の「性」から女性が再構築する「性」の世界である。

女性がポルノを書くことへの周囲の冷ややかな反応を感じながらも、清水晶子(東京大学大学院総合文化研究科准教授)先生の寄稿「ポルノ表現について考えるときに覚えておくべきただ一つのシンプルなこと(あるいはいくつものそれほどシンプルではない議論)」※2に大いに勇気づけれた。

「ジェンダー化された視線の配分においてより重要なのは、「どう見るか/どう見られるか」という視線のコントロールが誰にあるのか、である。

(中略)

「見られる」側が「見られ方」を――場合によって、一定程度までは――コントロールすることもありうる、ということ。言い換えれば「見られる」側は「見せる」ことによって視線の場に介入する力を持ちうる。

(中略)

「見られる対象」は「みられるイメージを見せつける」という形で視覚領域におけるコントロールの一端を回復し、それを通じて観る者になる可能性を獲得するのだ。

文中に引用された「フェミニズムは、女性によるセクシュアリティの探求にあらたに障壁を設けるのではなく、その探求の妨げになるものをどけて場所を作ることのために、力を尽くすべき※3」という言葉はまさに、私たちの「女性たちによる女性のための官能小説(女女官ジョジョカンとよむ)」の活動とリンクする。

執筆した私の作品自体について、文章の拙さや言葉選びのセンスのなさに加え、推敲にもっと時間を割き吟味すべきだったという点について今更取り返しがつかないが、猛省するところである。ただ、この問題への意思表明と受け止めていただければ大変ありがたい。
最後に、voluptasへ誘ってくださり、ご多忙のなか仕切ってくださった編集長の山内たまさん、ご一緒させていただいた皆さんには本当に感謝しています。ありがとうございました。

※1文学フリマとは?文学フリマのこれまでとこれから
※2社会の芸術/芸術という社会|フィルムアート社|p.142ー165
※3Cornell|Drusilla|ed.Feminism and Pornography|Oxford University Press|p.200―554