高山右近と信仰を追って、隣の茨木市にある千堤寺とその周辺のキリシタンの隠れ里に行ってみた。
「隠れ里」という名にふさわしく、市街地から車で30分以上離れた、山の中にある。資料館として用意された「キリシタン遺物資料館」※1へ。そこでは何百年もの間、屋根裏で隠されてきたマリア像や、高速道路による工事の折に発見されたキリスト教の墓石が展示されていた。

この千堤寺地区内に高山右近の居所もあったという。が、資料館にあった高山右近についての以下の説明文にモヤモヤ。「博愛の精神でキリスト教を布教」した高山右近は、「寺社を破壊」をしたのである。
汝の敵を愛せよというキリストの教えとは相反するものと思えてならない。

また、別件で先日箕面市を訪れた。
箕面市と聞いて思い出すのは「箕面市忠魂碑訴訟」。

学校の敷地となる場所にあった戦没者の忠魂碑の移転と、その移転の際に忠魂碑前で行われた慰霊祭に対する自治体の関与が政教分離違反(憲法20条・89条)として最高裁まで争われた。

政教分離原則とのかかわりで重要な判例として連想するのは、自衛官護国神社合祀事件。公務中に殉職した自衛隊員が県隊友会と地連によって山口県の靖国神社に合祀されたことに対し、キリスト教を信仰する妻が自身の信教の自由を侵害し、また政教分離原則にも違反するとして、手続きの取消しと精神的苦痛に対する慰謝料を請求する訴訟を県隊友会と地連を相手に提起した事件である。

この事件では、宗教の自由と宗教的寛容性が論点となった。※2

長島裁判官の補足意見によれば、
「教義をひろめ、儀式行事を行い、その他宗教上の行為を行う自由をひとしく保障
されるところに成り立つのであつて、これをその反面からみれば、各宗教には他の
宗教が憲法上保障されている宗教上の行為に干渉せず、これを妨げないという寛容
さが、憲法上要請されているものということができる」

自分が信仰する宗教と相いれない宗教に対して、寛容であることを要求する論旨にモヤモヤする。確かに、宗教的寛容がなければ、相容れない宗教とは争わねばならないことになる。歴史上、そして、現在も、宗教的寛容がないために、たくさんの血が流れ続ける。それでも、信仰が厚ければ厚いほど、相容れない宗教に対して寛容であることは難しい。

これはまた、表現行為であっても政治的信条であっても同様の問題がある。
自分の表現を信じれば信じるほど、それとは相反するものに対して寛容でいられなくなる。

逆説的ではあるが、寛容であれ、と求める輩に対して、そこを貫く信念の強さと流れた汗や涙がなければやはり、前にはすすめない気もする。

※1  キリシタン遺物資料館

※2   自衛隊らによる合祀手続の取消等請求事件|裁判所