静岡県立の劇団「SPAC」の俳優・奥野さんが静岡の空襲を語り継ぐ、ミッションゲルニカという活動をされている。以下は2017年9月24日お話を伺う会に参加した際の、鈴木さん(9X歳)のお話。

戦時中、駿府城公園(静岡市葵区)に陸軍の34連隊が置かれ、城東町に練兵場があり(現在保健センターのある辺り)、春にはレンゲやたんぽぽの咲く塹壕があった。そこで先輩の兵隊さんが若い兵隊さんをいじめるのが見ていて可哀想だった。

昭和7年に支那事変が勃発し日中戦争がはじまってから男性は20歳になると身体検査を受け、甲種合格すると優先的に出征させられた。戦地で命を落とすと白木の箱に白い布に包まれて帰ってきた。出征する時も戦死して帰ってきた時も皆で静岡駅までの道の両脇に立ち、旗を振った。昭和15年(鈴木さんは昭和16年と仰った)に大政翼賛会ができ、戦争を反対しようとする人は特高警察に連れていかれた。戦線は始めこそ南京陥落などといって優勢だったが、南方の南の島でガダルカナル島、グアム島、硫黄島等で次々敗北し、いよいよ日本本土にアメリカの爆撃機による空襲が増え、最初は大都市、その後静岡のような中小都市にも飛来するようになった。ラジオ放送で御前崎の南〇マイル沖や浜名湖でB29の飛来を知らされ、空襲警報が鳴る中を防空壕に避難する生活を強いられた。

静岡高女の女学生だった私は始め、出征した兵隊さんの留守宅のお手伝いをしていた。芋ほりやよいとまけのようなことまでした。終戦直前の昭和19年8月からは学校へ行かず、三菱の工場(現在の静岡高校)へ通った。警報が鳴ると小鹿の山の方面にある土手に避難した。昭和19年12月には空襲が激しくなり、東京へ進学するつもりだったが、先生に「東京へ行っても食べるものもなく、空襲がひどいので命の保証がない。絶対に行ってはいけない」といわれ諦めた。同級生も皆東京へ行かなかった。一人だけ広島へ進学した友人がいたが、昭和20年8月6日の原爆投下により現在に至るまでずっと原爆手帳を持ち、療養している。

その頃、おやつなんかは全然口にできず、食べ物といっても野菜も魚も何もなかった。道路は今のようにアスファルトではなかったため大豆を植えたり、芋を植えた。

6月19日未明の空襲の夜のこと。B29の投下した焼夷弾が四角い青い炎となって燃えていたのを見て、本要寺(静岡市葵区安東2丁目5−10)の周辺から練兵場の方面に向かって走った。西千代田の住宅の門から火が上がっており、そこが類焼すれば北安東町がすべて燃えてしまうと思い、知らない家だがとっさに飛び込み、消火ポンプで必死で水をかけた。そこで飛行機の飛来するエンジン音が聞こえ、次々爆弾を落とすのが見えた。ここで焼夷弾に当たっていたら死んでいただろう。西千代田の住宅が鎮火したので、その後3月に卒業した母校の静岡高等女学校(現在の城北高校)へ走った。藁で作った火たたき棒をつくって校内を火を消しながら廻った。弓道場の矢場の裏側から甘い匂いがいつまでもしていた。陸軍がそこに砂糖を隠していたことを知った。ほかにも体育館から油紙に包んだ工場製品が色々と見つかった。東海一という素敵な建造物だったが築造から5~6年足らずですべて焼失してしまった。私は前年の8月から工場へ行っており、3月の卒業式に行ったきりだったが、母校の悲しい最後の姿だった。その後、出身校である城内小学校へも駆け付けた。その時、火を消したお宅の方がお礼に訪ねていらした。小学校の校長の姿が見えず、心配していたところ、大きなリュックサックをもって現れた。「防空壕に入れてあったジャガイモがみんな蒸し焼きになったからみんなで食べよう」とリュックの中のたくさんのジャガイモを分けてくださった。自分の家は焼けなかったが、空襲の翌日、水落の交差点の近くのお友達が、高齢の祖父やその隣の茶道の先生が逃げ遅れなくなったのでお骨をいれるものを欲しいと訪ねてきた。茶道の先生は防空壕の中で正座したまま亡くなっていた。同級生は幸いにも存命だったが、静岡高女の12名の先輩が亡くなっていた。お住まいが市役所や伊勢丹の近くの方は大勢亡くなった。

金座町に住んでいた同級生の一人は空襲の夜、弟と母と安倍川の方へ逃げたが、金座町から安倍川に向かう辺りは木造住宅が立て込んだ職人町であり、両側から炎が迫ってきて母とはぐれてしまった。翌朝、近所の人の知らせで大やけどをした母を田町小学校で見つけ、急ぎ東鷹匠町の祖父母の家の戸板をもって田町小学校まで持っていき、大やけどをした母を東鷹匠町の祖父母宅まで運んだが、翌日息を引き取ったという。亡骸になった母を再び戸板に乗せ、安倍川で焼いたが、お骨にするまで2日かかった。安倍川の河原はほとんど全部焼き場のようになっていたが、防空壕に入ったまま黒こげになった方の亡骸は1日で焼けた、ということだった。

街中の人は防空壕に入れば焼け死に、逃げようと思っても火に追われ、本当にお気の毒だった。周辺部の方は建物のない田んぼの方へ逃げた。大浜へ逃げようとした方は米軍の飛行機に狙われるため、橋の下に隠れながら逃げ切り、命拾いをした。材木町の方は安倍川へ逃げたため命拾いできた。

私自身はあの時焼夷弾に当たらず、何とか生き延びることができ、あの当時食べられなかったようなものが食べられ、大変幸せだったと思う。あの当時、男性は生きたくても生きられなかった。私が三菱の軍需工場へ通っていた昭和19年頃、美術や文系の学生さんから召集令状が届き、理系の工学部などの方にも召集令状が届いた。ほとんどの大学生は皆戦地へ連れていかれ、船で沈められ命を落としたり、生きていても泥水すら飲めず、蛇やトカゲを食べ生き延びた。そんな辛い悲しい時代だった。

戦争を始める、それを決めるのは政治家かもしれないが、実際に被害を受け、身を粉にするのは庶民だ。今の天皇皇后は小学生で戦火の中を疎開され、東京の焼け野原だった悲惨さを実際に見ているから、現在に至るまで慰霊の旅を続けられているのだと思う。安倍総理の考えが正しいかどうかはわからない。今北朝鮮の情勢が不安定だから仕方がない、といえばそれまでだ。しかし、今日は戦争の終わる2カ月前に起きた静岡の空襲の話だが、そこに至るまでの10年中国や南方で怖い思いをした人がたくさんいる。食べるものがないばかりではなく、日本は物資がないため鍋釜、指輪などの貴金属も取り上げられ、戦争のために国債を買わされ、戦争に負けてただの紙切れになった。集めた貴金属が本当に戦争の役に立ったのかはわからない。静岡のある貴金属店はそれで丸儲けしたという噂もある。そんな一部の人は得をしたのかもしれないが、ほとんどの人にとって、財産を失い、命すら国に捧げて大変な思いをしたのが戦争という時代だ。

先日、伝馬町の戦争資料館で静大の学生さんが子供たちに戦争を伝える話をするというので一般客として伺った際、学童疎開の話をしていた。学生さんが「(戦時中)子供たちは静岡や愛知に疎開してきた。なぜだと思う?」という問いかけに小学生は「家や学校が焼けてしまったから」と答えた。しかし、そうではない。学童疎開は家や学校が焼けてしまう前に、将来の日本を支える子供たちを救うために疎開させたのだ。

絶対にどんなことがあっても戦争を起こしてはいけない。奥野さんのように戦争を伝えようと活動する人の存在はありがたい。しかし、どんなに逆立ちしてもあの時の空気を感じていただくわけにはいかない。私は毎月同級生の食事会をしているが、今まで戦争の話は一切したことはなかった。今までは空襲で辛い思いをした友人にこれ以上辛い思いをさせたくないと思い触れてこなかったが、今回の会のために当時の話をお一人お一人に聞いた。これにより若い方々が少しでもその時代のことを感じてくださればありがたいと思う。

鈴木さんのお話を日を改めて詳しく伺いたいと思いながら、静岡を離れてしまった。近い将来、伺わねばならないと思っている。